世の中にはとんでもない強者の大先輩がいるものだ。
昭和40年1965年に創部間もない秋田大学ヨット部の学生が、わずか16フィートの手作りのクルーザーを操り2年をかけて日本一周をした事は、当時を知る諸先輩方が少なくなる中で忘れられようとしている。その詳細を改めて見直してみると、現在の変化の大きな時代に生きる若者に対して、大いに刺激となる鉱山学部の若者の姿がある。
確かに無茶であった、学長からは中止命令も出た、しかし夢や想いに支えられ目標に向かってぶれない姿は、北光会同窓として誇りに感じ入る。この緻密かつ無謀な計画の主謀者こそ、北光会中国支部広島部会に在籍する磯部克也先輩(FS42)に他ならない。その豪快で押しの強さはかつて中国支部が隆盛の頃、酒を酌み交わすたびに支部の会員を勇気づけたものである。
この記録は、磯辺先輩に加え北光寮の石井中郎先輩(HS42)、堀江一夫先輩(GS43)の3名が中心になり手作りでヨットを製作する中、日本一周を計画するに至った経緯やその成果、2年かけて延べ9名で日本一周を果たした顛末について、当時の記録をもとに3回に分けて披露するものである。
第1章 日本一周のいきさつ
第2章 具体的なプラン
第3章 ヨットマンとしての誇り
主要な記録は秋田大学ヨット部発行「ヨットによる日本一周計画」1965によることをお断りしておく。
第一章 日本一周のいきさつ
秋田大学ヨット部の部長をされていた薄金教授(学芸学部)が、日本一周計画に対して綴った激文を紹介しよう。
昭和37年1962年ヨット部の先輩である3人の鉱山学部学生がヨットを自力で自前で作りだしてから、翌38年1963年に4隻のヨットを作り上げて土崎河口に浮かべ、その後学内外の心こもる援助、特に県体育課、県ヨット協会理事各位、海上保安部、材料器具等の各商社の方々の格別な計らいによって、学生たちは経費捻出に四苦八苦しながら3年目の現在、既に計4隻のヨットを作り上げ、定期的に訓練も重ねて、国体にも出場し、この度は日本周航の計画を立てるに至った。
その間、学生の若さにありがちな「情熱だけのツッパシリ」から、とかく学校との手続きの不備や学外の方々に対する連絡の不十分から、迷惑かけっぱなしの失礼に陥ることもあったけれども、その都度私としては厳しく、彼らと社会的モラルについて話し合い、ときには叱り、合理的精神の育成こそ、青春における人間形成の重要契機であることを説得して来た。
このたびこの日本一周計画書を見て、私は正直なところ「手放しで賛成もできかねる」 「危ないからやめなさい」と言うのが常識であろうけれども、既にそう言ってしまう事は一方、彼らの経験による勇気と自重を失わない信念等に水をかけることになるので、このこともまた「危険の限界を知る修練としてのスポーツ精神」からは忍びない。要は彼らの合理的精神の保持、いわば自然の暴威には、絶対随順、科学的な計画意図を完全に整備させ、冷静即応の自重心、すなわち自然に対する謙譲の美徳を実践するノッピキならない場として彼らに実践されたいのである。
何とぞ、皆様各位におかれましては、本計画書による「意外に冷静な実践精神」をお汲み取りの上、あくまでも自重な要請しつつ、ご賛同を賜りたいのであります。
秋田大学ヨット部発行「ヨットによる日本一周計画」1965より
さて、顧問の薄金先生を説得し味方につけ、合理的な精神、科学的な計画、自然に対する謙譲の美徳の実践の場を与えられた鉱山学部の学生達は、如何にして6mmのベニヤ板でディンギーを改造した16ftのクルーザー「北光号」で船出することができたか、第2章で詳しくお伝えしたい。当時昭和37年1962年には堀江健一が小型ヨットによる太平洋単独無寄港横断に成功し、「太平洋独りぼっち」が話題となった頃であった、さらに昭和39年1964には世紀の東京オリンピックが開催され、若者がそして日本が自信を持ち世界で活躍し始めた頃でもある。
広島部会 磯辺 克也(FS-42)
取りまとめ 岩井 肇(BS-55院)