北光寮の思い出

北光寮の思い出

 支部から催促されて何か書かねばならなくなった、仕方がないので65年も昔の北光寮での出来事でも書かうと思う。

いくら待っても帰ってこぬ同級生(1年生)がやっと帰ってきた、手ぶらである。情なさうに言う「見張り小屋でお茶を飲ませてもらった」と。平生行かない者に限って災難に遭ふのである。翌日、「寮生の皆さんにお知らせします、今日裏のぶどう園から文句を言ってきました。今年はひど過ぎると、昨夜捕まった人がゐるそうです。今度捕まへたら警察へ突き出すさうです、行く人は十分注意してください」。これが120人の寮生に対する風紀も取り締まる監査委員長のマイクを通しての放送である。今でも天気予報などで「十分注意してください。」と聞くと笑い出したくなる。そして、昭和35年だったか鉱業博物館への道がぶどう園を通ることになり、ぶどうも今年が最後なので北光寮へ「ぶどうを取りに来てくれ」と言ってきたらしい。これを聞いて、「はい、ありがとう」と行けるものではない、いわば沽券にかかわると言ふものである。これもくだんの監査委員長佐藤先輩の話である。寮の卒業生送別会で各先輩方がそれぞれの進路を発表される。佐藤先輩は「自分は日本鉱業の親会社の大日本鉱業に就職する」と挨拶されると、満場大爆笑が起こった。

これは昭和33年頃のことである。北光寮は古いが立派な作りであった。真ん中の本館の他に4棟あり、各棟2階建で1,2階とも5部屋に各部屋原側3人づつが入室してゐた。自分は1下5すなはち1寮の1番奥の便所の隣の部屋だった。2階への階段は、立派なものが第2室と第3室の間にあった。もう一つ2階から便所への直通の狭い階段が、部屋と廊下を隔てて向かい側にあった。 寮には無断で街から持ってきた種々雑多なものがあった。ドラム缶とかリアカーまであった。その中に森永製菓の宣伝用のバッキンガム宮殿の衛兵(黒い毛の長い帽子を目深にかぶって銃剣を携へてゐる)の等身大のホーロー引き人型もあった。夜になるのを待って、まず便所の電気のヒューズを切断する、直通の階段のヒューズも同様に切る。廊下の電気も消してをく。狭い階段を降りたところに衛兵の人型を立て掛けてをく。暗闇では人が立っている様に見える。誰かが暗がりを降りて足音が聞こえると。部屋の電気も即消す。不思議に鼻歌か口笛を吹いている。それが途中でピタッと止む。小便して帰るまで部屋では息を殺して聞き耳を立ててゐる。しばらくすると、人形をカーンと叩いて階段を上って行く、大成功である。次の人も同じ行動する、階段の途中でぴたっと止まり、帰りには必ず一発カーンと叩いていくのである。

古い寮だから、鉱専時代の人の落書きも多くあった。天井の板に色褪せもせず左右の足跡が黒くついてゐた。どうやって足形をつけたかやり方を解明せよと書いてあった。また、押し入れの壁(廊下の壁に比べて痛みがない)に「鉱専生特攻隊に志願せよ」とも書いてあった。何代にも亘って使われたので、真面目なのや下手なのや阿呆なのやいろいろあった。Boys be ambiと言ふのもあった。昭和33年から37年の間いろいろな先輩がをられた。掛け布団がねずみ色の綿だけ(綿を包む布がなくなって、綿がかろうじて布団の形をなしている)が満年床に在るのをチラッと見ただけでその凄まじさに驚いた。部屋っ子はさぞ大変だったらう。

おかずの代はりに飯に赤インクをかけて食ったおっちょこちょいの先輩もをられた。この先輩がぶどう園で知らない学生と鉢合はせをした。「お前はどこの寮か」と、夜中に来ているのは寮生に違いない、「啓明寮です」、「俺は北光寮だ、ちょっとそこで待っとれ」と言って、奥の見張り小屋の方に入って行きしばらくして「ホレ」と言って1房渡したら「アッ デラぶどうだ」と驚いてゐたと自慢げに言う。広げた新聞紙の上に四錘形に盛り上がった戦利品のぶどうを食べながらの報告である。4年生ともなると「このおっちょこちょいが」と言う風情であったが、1年生の自分たちはさすがと感心して聞きながらバクバク食ったものであった。

BS37 高津 肇

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