鳳(ほう)雛寮(すうりょう)時代の思い出

鳳(ほう)雛寮(すうりょう)時代の思い出

GS44 藤山 敦  (2022~2024年度 北光会中国支部長)

昭和39年(1964年)入学時には鉱山学部に3つの学生寮があった。場所は「北光寮」(定員120名)が鉱山学部敷地内、「桂林寮」(40名)が学芸学部の敷地内、「鳳雛寮」(60名)は大学敷地外で手形休下町の東中学校そばにあり、3寮それぞれに違った気風が存在したように思う。この3寮は1年半後に統合され手形西谷地に4階建て2棟の新寮「北光寮」となる。今回はインパクトの強かった統合前の鳳雛寮時代の生活を思い出し拙文とした。

わが鳳雛寮は木造2階建て、1、2階には各15室あり1部屋2名(部屋長、部屋っ子)。下図が寮の俯瞰図。

入寮後、間もなく秋田駅の東、新町(町名?)にある黄色いネオンのスナック「ナイル」に連れて行ってもらったことがあり、大人になった気分がした。当時は今ほど酒が飲めなかったし、その後も街に積極的に飲みに出ることはほとんどなかった。その代わり、冬の夜は洗面器に灰と炭を入れた炬燵に仲間が集まり、酒を飲みながら駄弁ったり、お互いの似顔絵を描き合ったりした。建物は木造の古いもので、ガラス窓1枚の部屋のため冬は隙間風や雪が舞込んだが、そこは若さで寒さは気にならなかった。寒い夜は食堂の薪ストーブに三々五々集まり暖をとり駄弁った。薪が無くなれば舎監さんの部屋の前から失敬したこともあった。

これも入寮後、先輩からボート部に勧誘され入部し、練習は秋田運河(旧雄物川)にある艇庫に当時まだ稼働していた八橋油田の中を通う毎日。5月の連休などは艇庫の宿泊室で合宿し、水道設備がなかったので近くの工場に水をもらいにバケツ運搬した。食事はカレーライスが圧倒的に多かった。秋田運河に1000mの直線距離を確保できる区間が土崎港までの間にあり、ここが主な練習場となっていた。夏の夕方、練習を終え仲間と帰寮途中(新川橋から秋田駅までバス)、歩いて駅から寮までの間にある学長官舎の前を通る時、当時の学長の渡辺万次郎さんが浴衣姿で門の前のごみ箱に腰を下ろしスケッチされているのを見かけた。正月明けは初漕ぎと称し、酒盛り後凍てつく運河で漕いだ。オールで散らした水滴が氷粒となり体に当たった。新入生勧誘のため4人漕ぎボートを艇庫から大学まで運んだことがある。交通の障害となるので早朝にリヤカーで運んだ。途中千秋公園のお堀に浮かべて漕ぎデモンストレーションまがいのことをやった。

夏の夕方、夕飯後に寮の裏から奥羽本線の踏切を渡り旭川の河原に涼みがてらの散歩した。そこは当時川幅の半分以上が砂礫の原となっており、そこでは寮の先輩がギターを弾いていたりして、ゆったりとした時間が流れていた。

寮から千秋公園の裏の小路(北の丸新町から台所町)を通って川反にはよく通った。川反といっても三~五丁目の飲み屋街ではなく二丁目の名店街の2階の隅にある喫茶ブルボンである。ここはクラシック音楽を聞かせてくれ、夜9時以降小さなホットドッグのサービスがあり空き腹の寮生には有難かったことと、店とは顔見知りになり、店に入り顔を見せればお気に入りのバッハの管弦楽組曲2,3番をかけてくれた。雪の夜は広小路経由で歩くのが気に入り、木内デパートのネオン明かりへの吹雪は大阪育ちには見たことがなく美しいと思った。

寮には風呂がなく、近くの「晴乃湯」の風呂券が支給された。家庭教師のアルバイトを探すのに、この風呂の女湯に広告を出したらとの先輩からのアドバイスがあり、出したところすぐに2件の応募があった。中学3年生で秋田工業を受験希望の生徒を半年ほど引き受けた。無事合格入学した。冬に風呂帰りの髪が凍り付いたのは初めての体験。

1年目の後半には新寮移転に伴う様々な問題が明らかになってきた。余り深く考えなかったが、寮の自治や寮費の負担問題だった。丁度そのころから、60年代後半の全国的にひろがった学生運動の兆しが表れたように思う。東大紛争、日大紛争、フランスなど外国の学生運動やベトナム反戦運動、成田・三里塚問題等々。68年頃には秋田大学でも学芸学部の校舎占拠が起こり、学内が騒然とした。

一年目は兎に角目新しいことがいろいろあった。その中で、一般教養の単位が 或る理由が原因で不足し留年となった。これには少なからずショック。「一般教養」が無かったのか! このおかげで2年目は時間がたっぷり出来たことから、アルバイト、ボート漕ぎの他、それらがない日は朝から晩まで様々な本を片っ端から読んだ。三浦書店や加賀谷書店などは3日を開けず通い店員には顔を覚えてもらった。なお、留年に関するトラウマは卒業前には解消していた。

学生時代・寮生活の思い出をおぼろげに辿ってみた。思い出は、ともすれば単なる年寄りの回顧だけと思われるかもしれないが、そこにある思い出のもとになる“記憶”は(広辞苑)によれば「将来の行動に必要な情報をその時点まで保持すること。再生・再認」であり、現在がある自分の土壌となってきたのは間違いない。この“記憶”の土の中に種子を播いて、育て耕すことが歳を重ねたこの先の励みにもなると思っている。

お付合い頂き有難うございました。拙文を終わらせて頂きます。

 鳳雛寮の玄関 筆者 1964年冬

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